映画 蝉しぐれ スペシャルコンテンツ 掲示板 監督日記 オープンセット・資料館 リンク トップ 山本甚作画 海坂の風景 庄内の歴史 海坂藩とは ロケ地紹介 かわら版 スペシャルコンテンツトップページへ

監督黒土三男の映画「蝉しぐれ」への想い

十五年の歳月をかけ「蝉しぐれ」映画化に取り組んだ黒土三男監督。映画化の準備を進める中、原作者・藤沢周平氏の訃報をきくこととなりました。

 以下は、黒土監督が追悼特集に寄せた文章です。製作準備段階の苦難の道のりの最中でも、決して絶えることのなかった黒土監督の熱い想い。藤沢氏にむけた決意表明でした。

--------------------------------------------------

※文芸春秋 平成9年4月15日発行臨時増刊『藤沢周平のすべて』より

いのいちばんに

 無念である。無念としか言いようがない。藤沢さんに、映画を見て貰うことが出来なかった。強引に、我儘ばかり言って、『蝉しぐれ』を映画にするお許しを頂きながら、とうとうそれを果たすことが出来なかった。それどころか、制作資金がまるで集まらず、今日に至るまで、蝉たちは鳴くことすら出来ない。
 七年前、『蝉しぐれ』を読んだ。大声出して、わめきたい程に感動した。そして、何としてでも映画にしたいと思った。

 それまでに、二本の映画を作った。口惜しさと反省ばかりが残った。もっともっと、時間と資金をかけて作りたい。もっともっと、本当の映画を作りたい。どこの国の誰にも負けない、映画と呼べる映画を作りたい。そうでなければ、三本目の映画など、作る必要もない、そう思い続けていた。

 三本目の映画には『蝉しぐれ』しかない。強く決めた。『蝉しぐれ』は時代劇である。時代劇の映画は莫大な金がかかる。そんなことはわかっていた。腰を据えてじっくり作るには、時間もかかる。そんなこともわかっていた。そんなことは、まるで怖くなかった。とにかく、『蝉しぐれ』という本にめぐり逢えたのだ。それこそが、何よりの勇気だった。『蝉しぐれ』には、主人公文四郎と幼なじみのおふくとの悲恋が描かれている。それはあまりに純で、あまりに美しくて、あまりに残酷な恋であり、藤沢さんにしか書けない恋だと、私は思う。

 汚れ果てたこの国に、こんな恋は存在しないだろう。観客が、時代遅れと笑うかもしれない。そんなことは構わない。私は、この恋を映画にしたい。いや、それ以上に私が三十五ミリのフィルムに焼きつけたいのは、文四郎と、その養父助左衛門との、父と息子の物語の方かもしれない。

 海坂藩のお家騒動に巻き込まれ、切腹を命じられる助左衛門。処刑の日を間近にして、 文四郎がほんの束の間、父に会い僅かばかりの言葉を交すシーン。わんわんと、外で蝉たちが鳴き続ける中、寡黙な父が息子に言う。「文四郎はわしを恥じてはならん」  父の遺した言葉の重さと深さに、文四郎は帰り道泣いてしまう。「もっとほかに言うことがあったんだ」と文四郎は泣きながら言う。「おやじを尊敬していると言えばよかったんだ」 私は、この父と子の一語一語を、じっくりかみしめたい。これ程の言葉を、文章ではなく台詞として、俳優の肉体を通して表現してみたい。

 更には、文四郎が大八車に父の屍を乗せてわが家へ向かう、あのシーンだ。こここそ映画『蝉しぐれ』のクライマックスとも言っていいと思っている。何の台詞も不要だ。衆人環視の中を、文四郎が黙々と歯を喰いしばって、大八車を引くのだ。そこに何の説明がいるだろうか。藤沢さんという作家が凄いのは、ここでおふくを登場させたことだ。車を引く文四郎の最後の力が尽きた時、振り返るとそこにおふくが居て、黙って車を引くではないか。映画はエンターテインメントであり、このシーンこそ最高のエンターテインメントだと、私は確信している。

 そうした私の一方的な思いとは裏腹に、大きな問題があった。藤沢さんは『蝉しぐれ』の映画化を、どうしても許してくれなかった。作家は書くだけである。映像化する為に書くものではない。出来れば、映像化などしたくない。そっとしておいて欲しい。それが藤沢さんの変わらぬ返事だった。

 あきらめきれなかった。藤沢さんの承諾は得られなくとも、とにかく前に進んだ。東北、山陰、広島、京都と、ロケハンを続けた。発見があった。『蝉しぐれ』の舞台としてふさわしいロケ地が、数少ないが、まだ残存していた。「シナリオを書こう」
 そう決心した。シナリオを書いて、それを藤沢さんに読んで頂く。強引なことはわかっている。何としても読んで頂く。それで駄目だと言われたら、今度こそあきらめるかどうか考えてみればいい。

 書き始めた。長い長い時間が無駄に過ぎるばかりだった。書けなかった。書いても書いても、原作に負けていた。尚も書いた。
 やっと書き上げた。シナリオを印刷して、藤沢さんに届けた。それからが本当に長かった。来る日も来る日も、藤沢さんからの返事はなかった。「根負けした」
 それが藤沢さんの承諾の返事だった。私ではなく藤沢さんの方が、あきらめて下さった。その日から、映画の資金集めに走り回った。世の中、どんどん不景気になって行く、今の日本映画如きに金を出すような、酔狂な人はどこにも居ない。
 日本が駄目ならと、アメリカへも行った。シナリオを英訳して、ハリウッドを駆け回った。「素晴らしい映画になる」

 ハリウッドの映画人たちはシナリオを読んで感動した。しかし資金は一円たりとも出さない。字幕スーパーの日本映画は儲からない、それがハリウッドの冷静な答えだった。

 焦った。焦りまくった。何故なら、映画を一日も早く完成させて、いのいちばんに藤沢さんに観て貰いたいからだ。その藤沢さんの身体が、普通の健康人ではないことくらい、私も感じ取っていた。はっきり言えば、時間がないことを、感じ取っていた。
 藤沢さんが逝った。

 無念である。だが、と思う。だが、と自分に言い聞かせようと思う。この先何年かかろうと構うものか。『蝉しぐれ』の映画は完成させるのだ。そしてやっぱりいのいちばんに、藤沢さんに観て貰うのだ。

©2005 SEMISHIGURE All Rights Reserved.