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監督日記

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平成17年9月20日 15年。やっと鳴きます。

 10月1日。映画「蝉しぐれ」は全国一斉に上映されます。あと10日です。この監督日記も、今日が最後だと思います。だから、皆さんに胸いっぱいになる前に、さよならの挨拶をしておこうと思います。

 15年かかりました。言葉もありません。蝉が、やっと鳴くのです。いのちの限りを尽くして鳴き、ほんの束の間のいのちを閉じるように、映画もまた限られた上映の期間中、いのちの限り皆さんに見ていただきたくて鳴きます。

 僕は、いま幸せです。この映画を完成させることが出来て、誰よりも幸運だと感謝する思いです。実は、いのちを懸けました。はじめて、それが出来ました。もう、なんの悔いもありません。

 生きることが辛くて、耐えることを知らなくて、世の中に希望を持てなくてひとり悩むしかない若い君たちに、僕はこの映画を誰より観て欲しい。偽善だらけの世の中に、本気で、いのちを懸けて作った映画があることを知って欲しい。人間も捨てたものじゃないことを、いちどでいいから本気で知って欲しいいんだ。

 皆さん。長い間本当にこの日記を読んでくれて、ありがとう。

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平成17年9月4日 完成披露試写会

 八月三十日。白金八芳園でついに完成披露試写会が始まった。 市川染五郎、木村佳乃、ふかわりょう、石田卓也、佐津川愛美そして緒形拳、原田美枝子の俳優陣が夏の終わりの光のなかに輝き、大勢の一般客の前に立ち並んだ。圧巻だった。映画「蝉しぐれ」はなんと贅沢なキャスティングであろうか。更に、大滝秀治、大地康雄、渡辺えりこ、原 沙知絵、緒形幹太、田村 亮、柄本 明と名前をあげたらきりがない。

 俳優陣と一緒に私も舞台挨拶に立った。これは緊張した。マイクを手に大勢のお客さんへ感謝の言葉を述べたいのだが、言葉が出て来ない。汗ばかりが出て来た。おい、しっかりしろよ。

 三百人ほどのお客さんだった。満員である。これから、いよいよ映画「蝉しぐれ」を上映し、見終わったあとに今一度舞台挨拶をしなければならないようだ。

 本当はお客さんと一緒に映画を見たかった。お客がどんな所で笑ったり泣いたりするか、それを知るときこそ、映画監督の喜びだからである。ただ残念ながら、メディアの取材を受けねばならなかった。嬉しかったのは、亡くなられた藤沢さんの娘さん、展子さんがお祝いに来てくださり、初めてお会いできたことだ。

 黒土組のスタッフも来てくれた。久しぶりの再会である。助監督の遠藤君はお母さんと二人で来ていた。親孝行なのである。

 二時間経って、そろそろ映画が終わりに近くなった。俳優陣と私は最後の舞台挨拶のためドア近くに集まった。そのときだった。もの凄い拍手が湧き起こった。お客さんたちの拍手だ。それが、鳴りやまない。感動してくれたのだ。映画「蝉しぐれ」に。

 十月一日。全国上映まで、あと一ヶ月。ここまで来た。

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平成17年8月27日 いのちの水

  またまた山形へ行ってきました。用事があって仙台まで 行ったのです。次の日東京へ帰るつもりだったのに、車 をターンさせ、山形自動車道をまっしぐら、助監督の榎本 尚也君とともに「蝉しぐれ」の地へ向かったのでした。

「空気が違う」と初めて山形の青い空を見た尚也君は叫んだ のです。
更に「これは旨い」とだだちゃ豆を死ぬほど食べながら 泣きました。可愛い22歳ですな。

 今回は買ったばかりのデジタルムービーカメラを持って来て いたのだよ。うん。一度、「水の山」と呼ばれ、世界でいちばん 美しい山だと私だけが思う鳥海山を撮ってみたかった。

 湧き水だらけの山なんだ。だから、水の山と呼ばれるわけよ。
撮影は二日間にわたって行われたのである。初日は全景を 撮りたかった。果たしてどの場所から撮るべきか、悩んだ。 こういう時に助けてくれるのが、羽黒町役場の丸山さんなの だよ。「チョーカイの森がベストですね」と即座に丸山さんは言った。 「よーし」と私と尚也君二人だけの撮影隊はぶんぶんと車を飛ばし たのであった。

 南極だか北極に「白熊」がいるよね。その白熊君が二本足で立って 吼えるが如く、わが助監督の尚也君は山の美しさに雄たけびをあげた。
しかし、大切なシャッターチャンスを逃してくれたのだった。もしかしたら この場所はホントにベストかもしれない。だって、カメラを逆に向けると、 今度は日本海がひろがるんだ。ちょうど夕焼けだった。太陽は海に沈む んだ。撮った。撮りまくった。「チョーカイの森」は「鳥海の森」ではない。
「眺海の森」と書く。成る程であった。二日目の撮影は山に登って、水 を撮った。滝から流れ落ちるエメラルド色の水だ。飲んだ。とっさに東京 に住む人生を悔やみたくなった。

「いのちの水なんだ」

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平成17年8月1日 青島の蝉たち

 二泊三日の旅で中国の青島(チンタオ)に行き、昨夜遅く帰国した。青島の全日空支店長の榎本さんに会いに行ったのである。単身赴任で、さぞや寂しかろうと、ほんの少しでも慰めになればと思ったからである。それに、青島がどんなところか、興味があった。

 友人榎本氏は寂しいどころか、人生を謳歌するかのごとく、明るく元気だった。何故なら、青島が素晴らしいところだからである。かつてドイツ領だったからか、町にヨーロッパの風情がまだ存分に残っていて美しい。彼に案内されて町を歩きながら、私は突然「おーっ」と何度も 叫んだものである。映画にしたい場所がいくつもあるからだ。それは、決して「きれいな風景」ではない。何が素敵かと言えば、古さのよさであり、人間の暮らしが、いや、人間のあるべき暮らしが失われていないことである。パリや京都の街角と共通するものだろう。その街角で蝉がないていた。

  驚くことではないのに、何故か私は「蝉が鳴いてる」と大声を出した。「青島にも蝉くらいいますよ」と榎本氏に馬鹿にされ、少し恥ずかしかった。 たまたま吉川さんという美女が一緒で、わたしへの助け舟か、実に詩的なことを言われた。「青島の蝉は、日本より悲しい声で鳴いているように思えます。何故か」耳を澄ましてみると、悲しいと言うより声が弱く、力がない。絶対量が少ないのか、蝉しぐれとは言えない。

 夜、青島の日本人会のみなさんから熱烈歓迎を受けた。会長の大谷さんをはじめ、ほとんどの男たちが単身赴任である。そして誰もが榎本さんと同じく生き生きとして素晴らしい日本人なのだ。東京の疲れきった日本人とは全く違う。優しく暖かい。余裕に満ちている。だから私まで、元気になった。一緒にいて心から楽しい人々なのである。

「そうだ」と不意に思った。 「ここに蝉しぐれがある。青島の蝉しぐれだ」

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平成17年7月22日 私の蝉しぐれ

 7月12日晴れ。久しぶりに帰郷した熊本は夜明けとともに蒸した暑さに包まれていた。私は熊本城がすぐそこに見えるホテルキャッスルに宿をとっていた。

 7時前だったと思う。眠れず、城内の森へでも行こうとホテルの分厚いドアを開けてそとにでた。その瞬間だった。突然、蝉しぐれが襲ってきた。それは、まさに私の全身を包み込み、私の耳をつんざいて、わんわんと、わんわんと襲ってきた。

 私は、立ち尽くしていた。そして、これこそが、私にとっての蝉しぐれであることに、感動していた。何故なら、わんわんと、命の限り鳴いている蝉たちは「くま蝉」だからである。熊本育ちの私は少年時代に、「シャワシャワシャワ」と鳴くこのくま蝉たちの合唱と輪唱こそが、蝉しぐれと知ったはずである。 

 山形に「くま蝉」がいないことを、撮影前に知った時は正直、ショックだった。北限を過ぎているらしいのだ。くま蝉の鳴かない蝉しぐれは私には、あり得ない。しかし、嘘はつけない。第一藤沢周平さんの蝉しぐれには、「くま蝉」は逆にあり得ないはずである。だから、映画の中では、勿論くま蝉は鳴かず、山形の蝉たちが、わんわんと鳴く。

 不思議である。私と藤沢さんの、蝉しぐれは違うのである。

 

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平成17年7月5日 テレビで描けなかったこと(1)

 「蝉しぐれ」は映画の前にNHKのテレビドラマとして、私は 脚本を書いた。想像以上の反響をいただき、それは尚いま だに続いている程だ。しかし、私は自分の書いた脚本に納得 が行かなかった。勿論、全力を尽くして、書いた脚本ではある。

 NHKの放送を観ていて、反省ばかりが、目に付いた。つまる ところ、藤沢さんの原作を越えていないのだ。いや、それは初め から力不足で、仕方がないとしても、何かが、何かが、私の脚本 に足りないのだ。随分、時間がたって、もういちど原作を読み直し た時、足りないのは何かにハッと気づいた。「気高さ」である。

 藤沢作品が素晴らしいのは、いずれの作品にも香る「気高さ」 だと私は思う。それは「人間の気高さ」であり「日本人の気高さ」 であり「男と女の気高さ」であろう。

 映画「蝉しぐれ」では、その「気高さ」を何より大切に描こうと 努めた。「気高さ」なんて、今の時代にあって、もはや死語に 近いかも知れない。だが、それがいまの時代の希望になれば と、私は映画に祈りを込めた。

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平成17年5月7日 大器晩成

 緒形幹太君とはじめて会ったのは、1990年の秋頃だったと思う。ひと目で、俳優としての彼に惹かれた。ヒッチコック監督の映画「サイコ」で主役を演じたアンソニー パーキンスを思わせるナイーブな感性とシャイさを秘めていた。

 この人は大きな俳優になる、と直感した。しかし、彼の秘めた才能はなかなか花開かなかった。見ていて、もどかしかった。私はついに、ある時怒鳴った。「才能を吐き出せ」と。でも、その時も、彼は吐き出せなかった。それどころか、腹の中にあらたに屈辱が溜まったにちがいないと思う。

 その屈辱と、才能を、彼は「蝉しぐれ」で一気に吐き出してくれた。文四郎の生涯の宿敵犬飼兵馬として、飛翔した。この役のために体重を10キロおとしたらしい。狂気を秘め病的な兵馬を演じる為に。

 映画「蝉しぐれ」のラスト近く、文四郎と兵馬の壮絶な決闘シーンを、どうぞお楽しみください。

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平成17年4月 24日 満開の桜

 4月24日の日曜日、オープンセットが一般公開されました。 そのセレモニーに石田卓也君や佐津川愛美君とともに出席 しました。なんと、北国山形は満開の桜でした。

 驚いたのは、あの幼いふくだった佐津川くんがもう高2、そして 15で文四郎に抜擢した石田君が18歳になっていたことです。

 実はその夜、石田君と二人で、鶴岡の町へ晩飯を食いに出ま した。寿司を食べていたら、地元の女子高生がふたりキャーキャー 騒いでやって来たのです。どこで情報を得たのか、石田君を追い かけてきたらしいのです。

 ふたりは「かっこいい。かっこいい」と騒ぐのです。石田君は照れ ていましたが、私の知らないうちに、彼は「いい男」になって来た ようです。

後世、恐るべし。

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平成17年4月2日 ふたたび山形

 3月31日庄内空港に降り立ちました。東京が桜の開花宣言をした日です。久しぶりの庄内は、吹雪舞う地でした。荒涼と果てしなくひろがる尚も冬枯れの稲田を車の窓から眺めながら、懐かしい大地に戻ってきた感慨をおぼえました。

 今回はNHKの仕事で来ました。教育テレビで5月3日から毎週火曜日4回の放送で、私が藤沢周平さんのこと、その愛する作品について、とりわけ「蝉しぐれ」について、思いを語ります。その撮影を映画のロケ地でやろうというのです。

 吹雪の中、龍興寺の帰り道のロケ地へ行きました。文四郎が父と対面したあとで、逸平に「父を尊敬しているといえばよかった」と告白する、あのシーンのロケ地です。寒さが足元から襲ってくるのですが、それ以上にあの日の思いがこみ上げて来ました。それが、やがて、涙となってしまったことを、告白しておきます。センチメンタルジャーニーです。

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平成17年4月 24日 満開の桜

 4月24日の日曜日、オープンセットが一般公開されました。 そのセレモニーに石田卓也君や佐津川愛美君とともに出席 しました。なんと、北国山形は満開の桜でした。

 驚いたのは、あの幼いふくだった佐津川くんがもう高2、そして 15で文四郎に抜擢した石田君が18歳になっていたことです。

 実はその夜、石田君と二人で、鶴岡の町へ晩飯を食いに出ま した。寿司を食べていたら、地元の女子高生がふたりキャーキャー 騒いでやって来たのです。どこで情報を得たのか、石田君を追い かけてきたらしいのです。

 ふたりは「かっこいい。かっこいい」と騒ぐのです。石田君は照れ ていましたが、私の知らないうちに、彼は「いい男」になって来た ようです。

後世、恐るべし。

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平成17年4月2日 ふたたび山形

 3月31日庄内空港に降り立ちました。東京が桜の開花宣言をした日です。久しぶりの庄内は、吹雪舞う地でした。荒涼と果てしなくひろがる尚も冬枯れの稲田を車の窓から眺めながら、懐かしい大地に戻ってきた感慨をおぼえました。

 今回はNHKの仕事で来ました。教育テレビで5月3日から毎週火曜日4回の放送で、私が藤沢周平さんのこと、その愛する作品について、とりわけ「蝉しぐれ」について、思いを語ります。その撮影を映画のロケ地でやろうというのです。

 吹雪の中、龍興寺の帰り道のロケ地へ行きました。文四郎が父と対面したあとで、逸平に「父を尊敬しているといえばよかった」と告白する、あのシーンのロケ地です。寒さが足元から襲ってくるのですが、それ以上にあの日の思いがこみ上げて来ました。それが、やがて、涙となってしまったことを、告白しておきます。センチメンタルジャーニーです。

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平成17年3月1日 美しきひと

 本当に美しい女性(ひと)。原田美枝子さんを思うとき、この言葉が浮かぶ。もう一言付け加えさせてもらうと、静かに美しい女性でもある。だから、彼女のそばにいるだけで、すっと、心静まる。

 女優としての演技も、そうだ。この女性は、見事に何の衒いもけれんもない、あるがままの自然な演技をする。実は、それこそ物凄くむずかしい芸なのだ。はっきり言って、そんじょそこらの俳優さんたちには、決してできない芸である。

 原田さんと仕事をする監督は、実にラクなのである。何も言うことがない し、することがない。客の一人として、彼女の演技に感動するだけである。カメラマンの釘宮さんは、ファインダーを覗きながら、つい我を忘れて、呆然とみつめてしまうそうだ。 

 さて、原田さんの役は、文四郎の母登世であり、緒形拳さん扮する助左衛門の妻である。原作にはないエピソードだが、私はこの二人の夫婦のシーンを新たに足した。海坂藩を嵐と洪水が 襲ったとき、助左衛門が収穫前の田んぼ を救う。その嵐も過ぎ去った穏やかな秋の夕暮れ、牧家の縁側で助左衛門が、馴れぬ手つきで針仕事をしている。 

 そこへ登世が、茶を持って来る。やがて登世は、黙って助左衛門に手をさ しのべ、針穴に糸を通す。たったそれだけの、短い何でもないシーンだが、私には、生涯忘れられないシーンとなった。

静かな、静かな美しさが、たまらない。

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平成17年2月11日 敬愛する俳優

 出演してくださるかどうか、心配だった。ただ、この役にはこの人しかいない、何故ならこれ以上に素敵な俳優はいない、私はそう信じていた。軽薄な言い方かも知れないが、昔から格好いい人だと思っていた。決して二枚目ではないと思う。しかし、その男としての魅力にぐいぐい惹かれてしまう。じっと立っているだけで、絵になる男なのだ。その魅力は年をとっても衰えない。

 快諾。その返事が来たとき、私は思わずガッツポーズしたものだ。

「牧 助左衛門に緒形 拳」

 これ以上の幸福はないと、監督として思った。だって、小説蝉しぐれの中で、私の最も好きな人物であり、龍興寺での文四郎との対面のシーンこそ何より演出してみたい場面だからである。そして、それは成功したと、自負する。

 映画をご覧になればおわかりになるが、父の息子にたいする最後の優しさ、せつなさ、苦しさ悲しさ、それら全ての演技を、緒形さんは、台詞よりも喘ぐような息使いで表した。見る側は、その息使いに涙が溢れて止まない。

 緒形 拳讃。

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平成17年2月8日 ロケ地へ行くなら ( 3 )

 文四郎が里村家老に呼ばれ、欅御殿から、おふく様の赤子をさらって来い、と言われるシーンがある事は、ご存知だと思う。これをどこで撮るか、私は悩んだ。普通の座敷では能がない。と言って、奇をてらうのは、嫌だ。里村は巨悪の男。文四郎を相手に、やんわり来そうな感じがする。裏技を使いそうだ。

 茶室が浮かんだ。午後のやわらかい陽射しが、茶室の窓外にそそぎ、里村はまるでなにごともないかの如く、静かに茶を点てる。そして、文四郎に茶を馳走する。本題はまだまだ彼方の話の如く。

 茶室を撮るなら京都、と言いたいところだが、どっこい、そうは問屋がおろさない、それでは芸がなさ過ぎる。

 時代劇は京都でなくては撮れまへん、なんて冗談ではありません。藤沢さんの故郷山形で撮れるし、海坂藩は庄内で撮るべきなのだ。だから、このシーンは鶴岡の町の真ん中致道博物館の茶室、まぎれもない江戸時代の茶室で撮った。

 ロケ地へ行くなら、是非この博物館を訪れて、茶室を見て欲しい。中へは入れないが、庭から見ることが出来ると思う。見終えたら、こんどは喫茶室でお茶を飲むなり、昼を召し上がれ。お奨めは、「麦きり」。そばでなく、うどんでもない。喉ごしつるつるの旨い麺だと言っておこう。今ひとつのお奨めは「だだちゃ豆アイス」で、これは次回のお楽しみ。

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平成17年2月5日 パリ

 パリを見て死ね、と昔の人は言った。かつて私は、あの町に住んだことがある。映画監督になりたくて、その勉強には、あの町しかないと、激しく思ったものだ。

 24歳。その頃、私はバイオリンを習いはじめた。そのバイオリンを 抱いてパリの空港に降りた。長い飛行機の旅で、疲れ果てていた。言葉はまったく 話せなかった。パリの右も左もわからない。知り合いもいない。宿も予約などしていな い。ゼロからの出発を決めていたからだ。

サンジェルマン・デ・プレの安い薄汚れたホテルを、やっと見つけて、ベッドに倒れ込んだ。目がさめて、窓を開けた。耳に聞きなれない言葉が飛び込んで きた。美しい言葉である。パリだ。心に叫んだ。

 蝉しぐれ。その映画を作り終えて、今私は、訳もなく、パリを思う。へミングウェイが言ったように、あの町はいつも心について離れない。移動祝祭日の町だからだ。あの町で学んだからこそ、蝉しぐれが、作れた。

 もう、随分とパリを訪れていない。今年こそ、あの町へ。

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平成17年2月4日 ロケ地へ行くなら ( 2 )

 おいくつかは、定かではない。 初老の、しかし気品はいささかも老いてはいないご夫婦が経営するフランスれすとらん。 まずは、この店を紹介したい。

 店の名前は「メゾンド中村」鶴岡の町中にある。雪国で幾星霜、静かに息つ”いて来た歴史と格調を漂わせる店内だが、まるで気取りはない。 東京でよく見かける高いばかりで、中身は浅薄な店とは訳が違う。あれもこれもと、メニューは多くはない。だが、いずれも旨い。

 さて、これはフランス料理ではないが、私のお奨めは、ハンバーグステーキである。ランチメ ニューだが、幸運に恵まれればディナーにも時としてある。 高くないのも旅人には嬉しい。

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平成17年1月24日 ロケ地へ行くなら ( 1 )

 ご存知だと思うが、山形県の羽黒町に、映画のオープンセットが建っている。撮影をとっくに終えた今も、保存として残し、見物客が後を絶たない。これまでに、すでに数万人の客が訪れたようだ。私としては嬉しいし、ありがたい気もする。
 そこで、これから行く人の為に、旅のガイド役をしてみようと思う。今回は、その第一回である。さて、旅で、まず大事なのは、泊まる所と食べる所ではないかと、私はかんがえる。皆さんはたぶん、鶴岡の周辺に宿をとる筈だから、おすすめは何といっても温泉!

 私のベスト1は、湯野浜温泉の満光園である。佐藤社長が、男の中の男である。器が大きい。そんな社長の下で働く人たち、これが又いい。客をもてなそうという心がある。温かいのだ。極めつけは、朝飯、私は何よりこれをほめたい。日本の朝飯は、こうでなくてはならない。少し贅沢過ぎるほどのご馳走なのだ。さらに、ついたばかりの餅が、雑煮、きなこ、などなど、私をでぶにする。

 もうひとつ満光園に負けない宿を紹介したい。湯田川温泉にある。ここは藤沢周平さんにゆかりのある所でもある。しっとりと、穏やかな温泉町である。湯質も凄くいい。私の好きな宿は二つ、甚内旅館と、さぎみや旅館である。いずれもこじんまりした宿で、こころある宿だ。宿泊費も良心的、とにかくもてなしが気持ちよい。余計なことだが、いずれも女将が美人だ。

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平成17年1月21日

 完成した映画 「蝉しぐれ」 の試写会に20名ほどの客を招いた。いわゆる一般の人たちである。この人たちの反応こそ映画の命運を左右すると、私は緊張した。ハリウッドでは公開前に、大勢の客に映画を見せる。何と、反応が悪いと、編集し直す事も珍しくない。巨額の金を使ってである。残念ながら、私の場合、もう一円たりとも、予算がない。正直、更に緊張した。

 2時間10分の映画が終わった瞬間だった。一瞬、試写会場が静まり返った。そして、拍手が湧き上がった。その拍手が、私の心をぐいと突き上げた。不覚にも、涙が溢れ、私は立ち上がり、「ありがとうございました」とやっと言葉にした。15年間の長い旅が、やっと終わり、報われるような、思いであった。

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平成17年1月10日

 皆さん。明けましておめでとうございます。本当に長らくごぶさたしましたが、今年もどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、映画が完成しました。明日はいよいよゼロ号、つまり、この映画にたずさわったスタッフだけによる世界にさきがけての最初の試写会です。

 小説「蝉しぐれ」を映画にしようと思ったのが、1990年のことでした。何と、遂に15年もの月日が経ったのでした。

 私の気持をお察し下さい。
さて、去年の暮れに、作曲家 岩代太郎さんの音楽が出来上ってから、録音の橋本泰夫さん、記録の石山久美子さん達と共に仕上げの作業に没頭しました。
橋本さん、石山さん、この二人が居なかったら映画は完成しなかったと思います。

 お二人はベテラン中のベテランであり、何より、もう数少ない本物の映画人です。映画を心から愛し、映画という偉大な文化を尊敬する人間なのです。

 頭の下がる仕事ぶりに、私は助けられました。私が悩み、私が挫折しかけた時に、はげまし、支えてくれたものです。

 石山久美子さんは、素敵な女性です。言葉少ない人ですが、その大きな優しさが、私たちスタッフを包んでくれるのです。

 こんな記録さんに恵まれたことを映画の神様に感謝する思いなのです。

 今度の映画では、スタッフ、キャスト、本当にいい出逢いをしました。その皆んなの力の結果として、映画が完成しました。

 勿論、映画の出来には自信があります。けれど、映画の良し悪しを決めるのは、私たちスタッフではなく、お客さんであるあなた方です。

 あなた方皆さんが、この映画に感動する時、その時こそ、映画「蝉しぐれ」が本物の映画となります。

 正式上映は今年の秋、10月1日からです。まだまだ先のことですが、どうか御期待下さい。

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平成16年11月3日

 久し振りに書きます。9月7日に撮影を完了して以降、編集を続けて来ました。若くて情熱的で、何より誠実な編集マン奥田さんのお陰で、今回の編集は思ったより早く完成に近づいています。

 おそらく、あと一週間もすれば編集は終わり、いよいよ音楽、効果音を入れる最後の仕上げ、ダビングに入ります。

 その音楽を、今回は作曲家岩代太郎さんにお願いしています。私にとっては初めての出逢いです。驚いたことに、岩代さんのお父上は私の郷里熊本の方でした。しかも太郎さんと同じく音楽家なのです。

そうした奇縁もあって、岩代太郎さんに音楽をお願いした訳です。気取らない素敵な人柄に魅かれました。

 奇縁といえば、もうひとつ不思議な縁を感じるのは、岩代さんが大の藤沢周平ファンだったことです。そして「蝉しぐれ」の本を読んで感動し、映画の音楽を何とかして自分がやりたいと思い続けて来られたことです。そんなことはツユほども知らず、私は岩代さんに決めたのでした。

 その音楽のデモテープが、あと数日して私の手元に届きそうです。

 彼が豊かな才能を持った人であることはわかっていますが、果たしてどんなイメージの曲を作って来るのか、どきどきしています。

 高校生の時に、一つ年上の女性とデートの約束をし、喫茶店に早く行って待ってた時の気持ちに、少し似ています。

 彼女は私の高校の一年上の先輩で、ノーブルな美しさを持った女性でした。その人とデートをすることになり、私はロケハンをしたものです。彼女とコーヒーを飲む喫茶店を探し回ったのです。街中の喫茶店を下見し、これだと納得する店を見つけたのです。

 結論を言いますと、デートは失敗でした。大体、高校生の私にとって、喫茶店に行くこと自体が、ほとんど初めてに近い体験だったのです。コーヒーくらいは注文できます。しかし、美しい彼女がコーヒーと共にホットケーキなる物を注文したのです。

 その頃の私にはホットケーキなる物がどんな物か全くわからない物だったのです。見栄を張って、私も「同じく」と注文したのがいけませんでした。 目の前にナイフとフォークが運ばれ、蜂蜜の入った小さな小瓶が来ました。そして、あの茶色で円形のUFOみたいな物がやって来た訳です。

それをどうやって食べるのか、私にはわからずうろたえるだけでした。話はここまで、つまりこのデートは無惨に終わったのでした。 岩代さんの音楽は、きっと素晴らしい出来であることを祈って、今日はこれで。

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平成16年9月15日

 文芸春秋編集部の萬玉邦夫さんが逝った。萬玉さんは藤沢さんが亡くなられるまで、長い間担当編集者だった人である。そして何より、映画「蝉しぐれ」が実現するまでの約14年間、私を支えてくれた人である。

 1991年、映画「渋滞」を撮り終えた私は、「蝉しぐれ」を映画にしたくて、文芸春秋社を訪ねた。そこで初めて萬玉さんにお会いした。びっくりする程の美男子だったことをよく憶えている。軽い二枚目とは全く違う。穏やかで柔かく憂いを秘めたクラッシックな二枚目だった。

 しかし言葉は初め、辛らつだった。「映画化は無理でしょうね」とにべもなく萬玉さんは言った。その通り、原作者の藤沢さん本人が、やがてはっきりと「映画化はしたくない」と断って来られた。それでも私はあきらめなかった訳だが、その私を萬玉さんは見捨てず、むしろ次第に応援して下さるようになった。「蝉しぐれ」は私だけに限らず、数多くの映画人が映画化を望み、文芸春秋を訪れたらしい。それらの人々に萬玉さんが応対し、「映画化は無理です。黒土さんが映画化します」とおっしゃって下さった。藤沢さんの許しを頂く前も後も変わらずにである。

 藤沢さんが亡くなられた時、映画「蝉しぐれ」は製作費が集まらず、実現にはまだほど遠かった。映画を早く完成させて、誰よりもいのいちばんに見て頂きたかった人が藤沢さんだった。無念としか言いようのない私だった。それから一年くらい経った時、萬玉さんが静かに言った。「これ以上はあなたを支えきれない」

 私以外に映画化したい人々の圧力が萬玉さんを押しつぶしかねなかったのである。私は焦った。それまで以上に走り回り、映画の実現に心血を注いだ。
 映画が実現すると決まった時、萬玉さんは手紙を下さった。あのシャイな人には珍しいばかりの、喜びの手紙だった。電話でも一、二度、少しばかり言葉を交わした。つまり、考えてみれば、この数年、お会いしていないのだ。山形の撮影現場をこっそり見に行きます、との伝言を受けていたが、来られた様子がなかった。9月7日。撮影はすべて終了した。

 少し時間が出来た。萬玉さんに撮影が無事終了したことを、報告がてら、文芸春秋社を訪ねようと思っていた。その矢先である。9月14日。他界の知らせを受けた。昨日のことである。何とも、何とも、無念でならない。しかし萬玉さん、ありがとうございました。いっぱい、いっぱい、ありがとうございました。

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平成16年9月4日

 もうすぐ撮影も終る。鴨の曲りと矢場の坂を残すだけとなった。少年時代の牧文四郎を演じて来た石田卓也君とも「さよなら」を言う日が近い。その時には、監督として心から「ありがとう」を言いたい。「ご苦労さまでした。お疲れさまでした」と頭を下げたい。今の時代に、これほど真っ白な心を持った素敵な少年はいないと私は思う。

 出会ったのは去年の春、彼が16才の時だった。愛知県の春日井から、オーディションの為に東京へやって来たのだ。その時にはどこにでもいるただの少年に見えた。それでも私は、その日に彼を牧文四郎に決めたのだった。真っ白な心が全てであり、それに賭けてみようと思った。

 今思えば、その賭けに勝ったのだと思う。彼以上の文四郎は居なかったと、はっきり言える。

 彼に決めてから、撮影までに一年近くの時間があった。100回、200回、わからなければ300回でも400回でも、声を出してシナリオを読むこと。

 私と彼はまず、そのことを約束し合った。そしてもうひとつ、体重を10キロ落とすこと、66キロを56キロにすることを決めた。

 撮影までに彼は、その約束を果たした。それは人知れず、もの凄い努力だったに違いない。

 石田卓也君は太りやすい体質なのかも知れない。だから撮影中も彼はダイエットにはげみ続けた。17才で食べざかりの彼が、何より大好きな肉を我慢し続けた。「撮影が終ったら」と私は又しても残酷な約束をした。「大好きな肉を嫌というほど食べていい。御馳走する」

 彼は、私と出会うまでに、俳優としてだけでなく、演技というものの一切の経験がなかった。その彼が「蝉しぐれ」を通じて、この数ヶ月間の映画体験の中で、感性豊かな俳優に成長した。  チャールズ・チャップリンは、才能は1パーセント。99パーセントは努力と言った。その通りだなと思う。 石田卓也君は、17才の若さで、真っ白な心に、努力を注ぎ込み、才能という花を咲かせた。
石田卓也君。ありがとう。

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平成16年8月31日

 台風16号が東北を直撃し、通過して行った。各地で猛威をふるったようだ。私の郷里の熊本も大きな被害をこうむったらしい。私たちスタッフも、もしかしたらこの台風の影響で、昨日今日と撮影が中止になるのではないか、と思っていた。ところが台風は今日の昼の内に庄内地方を抜け、青空が残った。今日もまた夜の撮影があり、何ら台風の影響を受けない。まさにツイている。

 昨夜の撮影では感動的な体験をした。田んぼのあぜ道を作業隊が走るシーンだ。
嵐なので、雨を降らし、巨大扇風機で風を吹かす訳である。俳優さんもスタッフも終ればずぶ濡れになる。一応、スタッフは合羽を着て、撮影にのぞむ。「よーい。スタート」で撮影が始まった。「田んぼのかかし」を田んぼの中に一本立てておいた。その「かかし」が風に吹かれて倒れて行く。「おや」と思った。もう一本「倒れないかかし」がいる。いや、失礼、「かかし」ではないカメラの助手、まだ一番下の助手の中尾君がハレーションを切るカポックを両手に持ち、雨に打たれ風にあおられ、必死に踏ん張っているのだ。合羽は何の用もなさない。ずぶ濡れどころではない。中尾君は、私が「カット」と叫ぶまで頑張った。あらためて思うのだ。私は素晴らしいスタッフたちに支えられている。

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平成16年8月30日 庄内にて

 ラストの山形ロケに来ている。撮影はおよそ九割を終えている。あと一割。天気に恵まれれば、あと一週間で、クランクアップを迎える予定だ。そのお天気だが、台風16号が現在九州地方を直撃、北へ向かって通過中である。庄内の空は、朝から晴れ渡っている。台風の影響がなさそうに見えるが、実は大いにある。何故なら今日は異常に暑い。猛暑がぶり返したようだ。それというのも台風のフェーン現象のせいだと思う。今夜遅くか明日になれば台風が山を越えて庄内に大雨を降らせると思う。

 ところで今日は、夜のシーンの撮影である。偶然ではあるが、海坂藩に台風がやって来る嵐のシーンである。文四郎は留守の父に代わって、普請組作業隊の一員として、嵐の中へ出かけて行く。市内の洪水を避ける為に、五間川の土手を切って、水を外に流す作業である。

 まさに土手を切ろうとする時「お待ち下さい」と大声が響く。文四郎の父助左衛門である。 助左衛門は土手の決壊を柳の曲りでなく鴨の曲りに変えるべきだと主張する。そうしないと約10町歩の田んぼが全滅するからである。上司に喰ってかかる助左衛門の姿をみつめながら、文四郎は感動している。「父は凄い」と。

 この大切なシーンを、今日、明日、明後日、の三日間にわたって撮影する予定だ。これまでが天候に恵まれて来た。いや、非常に恵まれて来た。今夜もそのツキを逃したくない。

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平成16年8月13日

 木村佳乃さんについて語りたい。是非皆さんに映画を観る前に知っていただきたい。この映画のおふく役は、世界広しと言えども、彼女しか居なかったであろうことを。文四郎の市川染五郎さんと木村佳乃さんに出会えたことが、おそらく私の最大の幸運だったと思う。

 14、5年もの間、この映画を作りたくて走り回った。その折々に、文四郎とおふくを誰にするか、どの俳優にするかが変わって行ったものである。何故なら俳優も年をとるからである。

 そして、いよいよこの映画の実現が決まった時、おふく役は木村佳乃さんしかありえないと直感したのである。「透明な女性」。これがおふくには何より大切だと思った。肉体も精神も透きとおるように美しい女性と考えた時、木村佳乃さんが浮上したのである。

 しかし、私は彼女について知らない。勿論、テレビドラマに出演する彼女は多少知っている。けれど、そんな知識はまるで役に立たない。彼女が一体どんな人で、どんな演技をするのか。テレビサイズの演技ではない。あのスクリーン上の映画でしかない演技だ。

 一度会って、話をしたら、素敵な女性だった。自分に正直で、等身大の、あるがままの女性に見えた。それはナチュラルであろという事にも思えた。美しいのに、何の気取りもなかった。そこが気に入った。

 けれど演技は未知でしかない。不安は大いにあった。それを乗り越えて彼女に決めた。撮影までには長い時間があった。彼女も私もおふくについて考える時間は十分あった。そして撮影の日が来た。

 NHKに脚本を書いたテレビドラマ「蝉しぐれ」と映画の大きな違いは、物語りのどの時点で、子役から大人の俳優に変わるかであろう。テレビではそれが結構早かった。無理を承知でそうした。それはそれでよかったかも知れない。観た人たちの評判からは、違和感がなかったらしいからだ。

 さて、映画のおふく。大人のおふくはラスト近くになって初めて登場する。江戸へ行ったおふくが国元へ帰る、欅御殿で文四郎と再会するシーンからだ。

 そうなのである。木村佳乃さんは江戸へ行き大人の女になったおふくとして、文四郎の前に再登場するのだ。

 このおふくは、絶対に絶対に美しくなければならない、というのが私の演出プランである。美しいだけでは物足りない。「透きとおるように美しくなければならない」。

 欅御殿のセットは東京撮影所第2ステージに建てられた。着物を身につけ、かつらをかぶり、木村佳乃さんのおふくが欅御殿に現れる時、私たちスタッフは息をのんだ。おふくが、まぎれもなくおふくが、現れたのだ。その何と美しいことか。

 映画は光である。光がなければカメラを回しても映らない。照明の吉角荘介さんに私は頼んだ。「透きとおるように美しく」光をあてて下さい。吉角さんとは1991年の「渋滞」からの付き合いであり、私は彼の才能を200パーセント信じている。だからである。

 彼の光によって木村佳乃さんのおふくは、まぶしいばかりに美しく35ミリのフィルムに甦った。

 御期待下さい。

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平成16年7月16日 近江八幡にて

こちらへ来て1週間になる。今日は夜の撮影。文四郎とふくが権六の舟で城下を抜け、横山家老の屋敷へ向かうシーンを撮る。そして明日は、東京へ戻る。約500キロの道を、またしても車で走る。妻のもとへ向かう。

妻と言えば、この映画のキャメラマン釘宮慎治さんの奥さんについて書こう。そうは言ってもまだ一度もお会いした事はない。一度電話で、声をお聞きしただけである。落ち着いた美しい声だったことをよく憶えている。きっと素敵な女性に違いない。

私もそうだが、映画の仕事に携わるスタッフの誰もが、一ヶ月も二ヶ月も、自身の家へ帰れないことが、しょっちゅうある。

カメラマンの釘宮さんはシャイで無口な方だから、親しい私にもプライベートなことは話したがらない。

「奥さんに電話くらいしてるの?」とある時私は聞いた。「ええ…まあ…」とだけ彼は答えた。
「電話の声が、凄く美しかった」と私は続けて言った。彼の顔が赤くなった。笑顔になった。心から嬉しそうだった。思うに、声だけじゃないらしい。美しい人のようだ。

釘宮さんは、カメラマンとしては、この「蝉しぐれ」が初めてである。だからと言って何の不安もない。これまでの撮影が彼の才能を証明しているからだ。私は彼の少年のようなナイーブさと、ものごとを見る心のデリカシーが好きだ。

釘宮さんがカメラ助手からカメラマンに昇進したことを、彼の奥さんは喜んだと思う。しかし、それ以上に喜んだ人がいる。釘宮さんの父上である。
「息子は永久にカメラマンにはなれないのではなかろうか」と親として心配なさっていたようだ。

「お父さんには報告したの?」と私は彼に聞いた。
「はい」と釘宮さんは答えた。
「何かおっしゃってた?」と私は聞いた。
「いいえ」と釘宮さんは答えた。「泣いてました」

父と息子。助左衛門と文四郎を思い出した。

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平成16年7月11日

そう言えば、撮影に入る直前に、新車が来たのだった。だから、その誘惑もあって、東京から山形の撮影現場へ車で行く気になったのかも知れない。走行距離は500キロくらいだろうか、5時間か6時間、走ったように思う。

生活は山小屋だったから、車は必要だったし、それがあったから、行動範囲が広がった。しかし、困ったことが起きた。山形の撮影が終わって、山形を去る日が来た。と言っても、東京に帰る訳ではない。次の撮影現場滋賀県の近江八幡へ移動するのだ。直行であり、東京へ立ち寄る余裕などなかった。行程も、山形から新潟、金沢、福井と日本海沿いの北陸道を走らねばならない。それが最大の近道らしかった。

何と、10時間走った。朝7時に出発して、近江八幡へは夕方の5時にたどり着いた。本当にへとへとだった。参った。

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平成16年7月9日

 山形の羽黒町に入ったのは6月16日。撮影は7月7日までだったから、約20日ほど滞在したことになる。

 実は今回、これまでの監督体験とは全く違う新しい試みをやってみた。宿泊をホテルとか旅館とかではなく、一軒の山小屋を借りて住んでみた事である。これは、大成功だったように思う。メイキングの宮本菊千代君との二人暮らしで、自炊生活をやった。

 あとでわかったことだが、この山小屋の大家さんは、本物の有機農業を営む月山パイロットファームの相馬さんだ。

 ある日山小屋に誰からともわからず野菜の差し入れが届いた。その中のトマトを頬張って感動した。こんなに素朴で旨いトマトは初めてだった。

 ともあれ、山小屋には広いキッチンがあり、料理道具は全て揃っていた。だから、朝は米を研ぎ、メシを炊いた。味ソ汁を作り、魚を焼いた。魚は鶴岡の市場に行き、仕入れて来た。何故、ここまでするかと言うと、朝は三時か四時に目が覚めてしまうからである。監督として現場に入ると、いつもこうなる。寝てなんかいられない。

 目がさめると山小屋の外に出て散歩する。周りは人家も何もない原生林が拡がっている。軽井沢や八ヶ岳のように洗練された山小屋とは大違い、そこが気に入った。

 全ての生きものが朝とともに目ざめ、動き、鳴き、風にそよぎ、山や川は光射し始める。

 その中には矮小な存在でしかない人間としての私が同化して行く。溶け込んで行く。つまり大自然の一部として仲間に入れて貰う。至福の瞬間であろう。

 暑さの中の撮影であり、終ると体はへとへとである。山小屋に帰りつき、夕食をせずに寝てしまうこともあった。時間に余裕がある時は風呂は温泉へ行く。幸い庄内地方はいたる所に温泉がある。山小屋近くの羽黒山にも、いくつかの秘湯があり、突然訪ねても嫌な顔をせず迎えて下さった。

 ストイックな生活だった。それがよかった。藤沢周平さんの故郷を肌で感じ、学ぶ日々だった気がする。それが画面にきっとにじみ出ると信じている。

   

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平成16年7月1日 羽黒町 山小屋にて

 7月1日。市川染五郎さんが山形県羽黒町の撮影現場に入った。約一週間、好天の下で撮影が続いた。

 私は、染五郎さんとの仕事は初めてである。実は、驚いた。彼が凄い俳優だからである。私は彼に、今までの染五郎さんではない何かを、要求した。牧文四郎という東北の田舎に生まれ育った武骨だが凛々しい男になってくれることを願った。その要求を受けて、染五郎さんは、みごとに牧文四郎になった。

 ある日、湯野浜の海辺で撮影した。欅御殿からおふくを助け出し横山家老に託し、里村の悪家老に一矢報いることが出来た文四郎は、ドラマの終章として、波打ち際に砂の塚を作り、その頂きに刀を刺す。亡き父のとむらいであろうか、黙して合唱した彼は背を向け歩き出す。

 そのシーンを撮影した時、私は感動し、心の中で「凄い」と叫んだ。染五郎さんの背中の演技に舌を巻いたのである。それは恐らく、歌舞伎界に生まれ育った彼にしか出来ないもののように思える。

 他の俳優がどれだけ努力してみても追いつけない何かが、彼にはある。佇まいの美しさ、とでも言っておこうか。

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平成16年6月18日

 

 スタッフ全員、未明の3時に羽黒町松ヶ岡のオープンセットに集まった。真っ暗である。 夜明けは4時前の予定、撮影の準備を急ぐ。

 ところでカメラマン助手の斉藤君、二階堂君、中尾君の三人は、前日の夜に東京から車を飛ばして駆けつけ、一睡もしていない。監督としては、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 実は、クランクインは明日の19日である。けれど19日の天気があやしい。雨は降らないらしいが、くもりの予報だ。晴天であって欲しい。夜明けの牧家を撮りたい。オープンセットの朝日を撮りたいからだ。

 それで一日前の仮のクランクインとなった。東の空が白み始めたのが3時半。うっすらと雲がかかっているが、いい感じである。
3時40分。カメラがスタートした。れいめいの光がオープンセットに降り注ぐ。カメラポジションを変えて、撮影の釘宮さんが走り回る。5時。撮影終了。

 それぞれが宿に帰って仮眠をとる。午後3時。全員、オープンセットに集合の予定。オールスタッフによる、いわば打ち入り式の予定である。そして夕方。湯の浜にての撮影が予定されている。

 突然、江戸へ行くことになったふく。
そのふくが文四郎に会いたくて、葺屋町の長屋へ駆けつける。しかし、文四郎は道場へ行って留守で、会えない。泣き泣き帰り道、おふくは、海へ行き、浜辺をただただ歩く。

 そのシーンである。乞う御期待。

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平成16年6月1日

 六月に入った。十九日から山形での夏のメイン撮影が、いよいよ始まる。もう時間がない。遂に来たか、という思いがする。逆に、時間がある限り、準備を完全にしなければならない。とりわけ、脚本をより良くしなければならない。脚本とは生きものである。撮影の時間ぎりぎりまで、「出来た」ということはない。直すべきはあくまで直し続けるべきなのだ。

 脱帽するのは、助監督の森 完治君である。一体彼は脚本を何十回、いや何百回読んだのだろうか。その都度、「ここはこうした方がいいのでは」と進言して来る。それによって、脚本がどれほど良くなったことであろうか。

 森君に限らない。他の助監督の遠藤君、河北君、濱田君、彼等は毎日東宝撮影所のスタッフルームに夜遅くまで残り、脚本の周辺を調べに調べ尽くす。それぞれが映画を尊敬し、愛している。

 時々、不意にタバコを吸いたくなる。去年の九月二十六日にやめて以来、
今日まで1本も吸ってはいない。本当にやめられるだろうか。

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平成16年4月23日

 私たちスタッフは、山形県米沢市の田園を車で走り回っていた。「蝉しぐれ」のロケハンである。金井村役人藤次郎の家にふさわしい、わら葺の豪農の家を発見し、ロケ地に決めることが出来た。その日の仕事を終え東京に帰ろうとした時、制作担当の坪内君と竹岡君が、私にもう一カ所、矢場の坂を見てくれ、と言う。

 矢場の坂ならもう新潟県の松之山に見つけている筈ではないか、と私は二人に反論したが、どうしても見てくれ、ほんの数分でいいから、と粘る。

 切腹させられた父の遺体を荷車にのせ、文四郎が家へ連れて帰る途中、最後の最後で力尽き、荷車ごと倒れそうになる。その場所が矢場の坂である。文四郎が、もう駄目かと気を失いかけた時、坂の頂きからおふくが助けに来る、この映画の中の最も大切なシーンである。

 大げさに言えば、矢場の坂を見つけるロケハンの良し悪しで、この映画の出来が決まると言っても過言ではない。

 坪内君と竹岡君を先頭に、私たちは二人が極秘に見つけた坂道へ行った。そして私は、感動した。
これはまさに、蝉しぐれの矢場の坂である。私は心の中で、泣きたいくらいに嬉しかった。そして何より嬉しかったのは、映画の神様が、坪内君や竹岡君両スタッフをくれたことだった。

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平成15年10月23日 晴れ 東京

 新潟の松之山でクランクインしてから1ヶ月。私の禁煙も1ヶ月。医者に「タバコをやめろ」と言われた。血圧が高く「やめなきゃヤバイぞ。いつ倒れてもおかしくない」と言われた。タバコをやめれば映画が大ヒットするのかもしれない。

 そんな馬鹿なと思いつつ、タバコをやめた。
この1ヶ月1本も吸っていない。それまで一日百本くらい吸っていた。自分でも呆れ、驚いている。意志の弱い自分がよくここまで禁煙が続くものだと。

 さて紅葉シーズンが近づいている。11月に入れば各地で紅葉が始まる。私たちの撮影隊もまずは松之山の紅葉を狙う予定。江戸へ行くことになったおふくが、芦屋町の長屋へ走るシーンだ。

文四郎に会いたい。明日江戸へ行く。
その前にひと目でいい。文四郎に会いたい。
本当は、江戸へなんか行きたくない。
文四郎と離れたくない。
会いたい。
会いたい。
とにかく文四郎に会いたい。

 そんな思いを胸に、おふくは紅葉の道を走る。
そのシーンを松之山の美人林で撮る。

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平成15年9月18日 晴れ 新潟県松之山にて

 今日、初めてこの映画のカメラを回す。実景であるが撮影初日である。田んぼを撮りたいのである。
そんじょそこらの田んぼではない。江戸時代にあったであろう田んぼでなければいけない。
今の田んぼは機械によって区画整理され、これを撮ったら嘘になる。
だから松之山にやって来た。ここには昔ながらの手つかずの田んぼがひっそりと残っているのだ。

 撮影監督は、「渋滞」、「英二」のカメラを回した戸澤潤一。
私の映画のカメラは、映画の心を誰より持った彼でなければはじまらない。
照明は勿論、吉角荘介。二人は名コンビなのだ。

 朝9時30分。「よーい。スタート」戸澤のカメラが回り始めた。
秋晴れ。田んぼが広がり輝いている。黄金色に。

 思えば、この日を迎えるまでに13年の歳月を要した。
13年前のあの日、藤沢周平(文藝春秋社)原作「蝉しぐれ」を読み、「これを映画にするぞ」と心に決めてから・・・。

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